日めくりインドア女子

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カズオ・イシグロ「遠い山なみの光」感想。記憶が曖昧になるほど思い出は濃くなっていく

カズオ・イシグロの小説「遠い山なみの光」を読みました。

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

遠い山なみの光 (ハヤカワepi文庫)

 

ネタバレを含む感想です。

最初の違和感

「遠い山なみの光」は悦子の一人称によって語られます。

それによると、悦子は現在イギリス在住。イギリス人の夫とは再婚だったが、数年前に亡くなっている。前の夫・二郎とのあいだに生まれた長女・景子を連れてイギリスに来た。景子は数年前に自ら首を吊って命を絶った。再婚相手とのあいだにもうけた次女・ニキは離れて一人暮らしをしている……といったことが順不同ながら明かされていきます。

現在の悦子の家には娘のニキが帰省してきていました。あまり自分のことを語りたがらないニキとの、ぎこちないやりとり。

イギリスで暮らす悦子が思い出すのは、まだ景子を身ごもっていた時期のこと。長崎で暮らした記憶です。

読み進めるうちに、不思議な感覚をおぼえました。

悦子の「現在」よりも「過去」のほうが克明で生き生きしているのです。

現在の悦子は、幻覚や幻聴ばかりで、ニキとの会話も要領を得ずにふわふわしている。

でも過去の悦子はいろんな人と活発に意見を交わし、臨月にも関わらずいろんな場所にアクティブに出かけています。足場の悪い川原や沼地のようなところでさえもサンダルのまま行ってしまうくらいです。昔だから年若かったとはいえ、あまりに活発なので違和感をおぼえるほどです。

佐知子と万里子は存在したのだろうか

悦子が思い出す、長崎の記憶。

そこには一組の母子が登場します。

佐知子と、娘の万里子。娘は十歳くらい。

悦子が暮らすアパートの近くに越してきた佐知子に興味をもった悦子は、仲良くなろうとします。徐々に親密になっていく二人でしたが、佐知子はアメリカ人の恋人に入れあげ、娘がちょいちょい居なくなっても無関心な様子。

心配になった悦子が何かと世話を焼こうとしますが、万里子はなかなか気難しく、懐くどころかまったく心を開こうとしません。

何度目かのアメリカ行きに躍起になる佐知子に、悦子は「子供のことをもっと考えて」と言ってしまいます。しかし佐知子は「女性はアメリカのほうが自由に生きられる。万里子だってハリウッド女優になれるかもしれない」と意思を示します。

悦子が語るなかで、現在の悦子がなぜ景子を連れて離婚し、イギリスに渡ったのかは明かされません。

しかし佐知子と万里子の「母と娘が日本を離れて外国で暮らす」という構図は、そのまま悦子と景子にも当てはまるんですよね。

佐知子の奔放な考えや、万里子の頑なな態度。それは悦子と景子のものだったのかもしれない。そもそも、佐知子と万里子が本当に存在したのか。それすらも曖昧に感じ始めると、まるで悦子の思考のなかに迷いこんだような気になってきます。

記憶と思い出

悦子が浸る思い出の真偽を疑っても、しかたがありません。

思い出とは曖昧な記憶や深層心理によってつくられる迷宮のようなもの。

それを小説として書こうとするとやたら理路整然となったり、逆に支離滅裂すぎたりして「思い出」らしからぬものになってしまいそうですが、この作品はまさに悦子の思い出が写し出されていると思います。

小説の最後には、現実の悦子とニキの会話がありますが、悦子の言葉にはっきりと違和感が混じります。

佐和子と万里子と行楽に出かけたあの日のこと。「あの日は景子も幸せだったのよ」と悦子がニキに話して聞かせるのです。

思い出のなかで、あの日はまだ景子は生まれていないはず。やはり佐和子と万里子は存在せず、悦子と景子で行ったのでしょうか。

それとも、生きづらさを示していた景子にとって、お腹のなかにいるときがいちばん幸せだった、という考えから出た言葉でしょうか。しかし胎児の景子を指したのであれば、景子はまだ意思表示できる状態ではないので「景子も幸せだったかもしれない」となるはずです。

最後まで悦子の思い出に迷いこんだまま、お話は終わってしまいます。

記憶がどんどん薄れていくかわりに、思い出は色濃くなっていく。ひとりの人生を思い出ごと垣間見たような濃厚な読書体験でした。