日めくりインドア女子

ゲームや漫画、ドラマやコンビニスイーツなどに関するインドア女子の記録

もしもあの頃インターネットがあったなら、母は宗教にハマらなかっただろうか

f:id:awawako:20170223133515j:plain

今日はタラレバな話をひとつ。

芸能人の出家騒動を見ていて、自分の母親がある宗教にのめりこんでいた頃のことを思い出しました。

宗教といっても「信仰」そのものというよりは「宗教を求める心境」について考えてみたいと思います。

幼い目に映った「宗教」

母がその宗教にいつから傾倒していたのか、はっきりとは分かりません。わたしが幼少期にすでに入信していたのは確かです。

保育園児だったわたしは母の自転車に乗せられて、ほぼ毎日のように「道場」に通っていました。その道場で売られていたナポリタンスパゲティがたっぷりと入った総菜パンの味をよくおぼえています。

道場で母がなにをするかと言うと、まず広間に入ってすぐに賽銭箱のようなところへ「お布施」をいれます。母の口癖は「もったいない」、好きな言葉は「節約」なはずなのに、お布施はそれにはあてはまらないのだろうかとずっと不思議でした。

広間では信者同士数人で輪になって座り、それぞれの悩みを話しあったり励ましあったりします。床が赤紫色のカーペットでふかふかしていて、むせるようなお香が立ち込める広間の上手にはその宗教における本尊がまつられています。

玩具も絵本もなく、はっきりいって子どもにとってはまったくつまらない場所でした。同じく保護者に連れられてきているほかの子どもと遊んでらっしゃい、と母に言われてもなかなかあそべません。ただ同じ年頃というだけですぐに仲良くあそべるスキルを持ち合わせていませんでしたし、母やその周りの大人と一緒にいたほうが気が楽でしたので、わたしは一生懸命、大人たちの話を聞いていない風をよそおいながらもつまらない様子は見せないスキルだけを身に着けていきました。

 

母が熱中していた期間 

母の宗教熱はそれからもしばらく続きました。

家に来る母関係の知り合いはほぼ「信者」でした。

アパート住まいから新しく家を建てることになったときには「教え」にしたがって大きすぎる仏壇をつくり、わたしも休みの日などには母の道場通いに付き合っていました。

夏休みには東京の本部へ研修に行かされました。それとは別に、青年部が取り仕切り子どもたちだけで道場に泊まり込むという合宿行事もありました。

そこで出される夜ご飯はカレーときゅうりの漬物で、寝る前になると各自の親からの手紙がみんなの前で読み上げられ、感動してみんなでわあわあ号泣していたのが記憶に強く残っています。

こうして思い起こしてみると、わたしの幼少から思春期時代はあの宗教なしには語れないほど影響が大きかったとあらためて実感します。あのとき一緒だった子どもの名前や顔はさっぱり覚えていませんし、単なる「付き合い」で厚く信仰していたわけじゃないですが、宗教関係の行事を記憶から消し去ってしまったら残りは相当な歯抜けになるはずです。 

しかし、母の宗教熱はわたしが高校を卒業したころには急激に下がっていき、道場に通うこともぱったりとやめ、毎日家で唱えていたお経の声も止んでしまいました。

   

母が宗教に求めていたもの

母に直接聞いてみたことがあります。「もうあの宗教はやめたの?」と。

答えは「なんか面倒になっちゃってねぇ」と漠然としたものでした。誰かと決定的な喧嘩になったとか、やめざるをえないような重大な事があったわけでもなさそうです。

思うに、母にとってお金や時間を使う価値がもうなくなった、ということでしょう。

逆に考えれば、あの頃の母にとってはそれだけの価値があったということになります。

お金を払って、愚痴や悩みを聞いたり、聞いてもらったりして心の安定をはかる。理不尽なことがあっても、「修行」だと思って耐える。苦しみを信者同士でわかちあう。

いわゆる「承認欲求」と「所属欲求」を満たせる場所であったのでしょう。あの頃の母にとって。

f:id:awawako:20170223133238j:plain

現代でその欲求を満たすツールのひとつとして、インターネットがあります。

あの頃はインターネットが普及していませんでした。携帯電話もメールもなく、母はよく遠方の友人と手紙でやりとりしていました。

もしも、あの頃にインターネットがあったなら。

もしかしたら、母が宗教にあれほど熱を上げることはなかったのかもしれない。

インターネットでは、普段の立場に寄り添った関係はもちろん、普段まったく関係を持たないような人と意見を交換したり、共感しあったりすることができます。

それこそあの頃の母が求めていたものではないでしょうか。

とはいえ、そんな母がもしデジタルネイティブ世代だったとして、ネットにのめりこみすぎてオンラインゲームにはまってしまったり、SNS中毒のようになっていた可能性も高いです。それはそれで幼い子どもの目に映る世界はまた違ったものになっていたでしょう。

 

おわりに

以上、宗教二世というほどではないですが、わたしと母の体験談でした。

「ココロのスキマ」を感じたときに、なにか新しいものを探してきてそこを埋めるのはキケンなのかもしれないですね。

必要な栄養と休息(と運動と野菜と瞑想)を取り入れて、ココロそのものを満たすことを考えないといけないのかもしれません。そうすればスキマはいつか埋まるはず……ですね。まずは身体を動かすことから少しずつ、取り入れていきたいと思います。

お読みいただきありがとうございました!